1 問題の所在
―CRC批准30年後の日本における「実施の欠落」―
子どもの権利条約(Convention on the Rights of the Child:以下CRC)は、1989年に国連総会で採択され、日本は1994年に批准した。しかし批准から約30年を経た現在に至るまで、日本においてCRCは必ずしも「実施されてきた」とは言い難い。
その理由は明確である。CRCは単なる理念条約ではなく、締約国に対し、権利の実現のための制度的・手続的枠組みの構築を要求する「実施条約」であるにもかかわらず、日本では長らく、CRCを包括的に国内実施する基本法制を欠いてきたからである。
国連子どもの権利委員会は、日本に対する最終所見(2004年、2010年、2019年)において、
- CRCを包括的に実施する国内法の欠如
- 地方自治体における実施の不均衡
- 子どもの意見表明の形式化
- 事前・事後評価の欠落
を繰り返し指摘してきた。
2022年制定のこども基本法は、こうした状況に対する国レベルでの応答である。しかし、同法は原則法・推進法としての性格を持ち、CRC実施の具体的単位は、依然として地方自治体に委ねられている。
本稿は、この文脈において、安芸高田市子どもの権利条例案(安芸高田モデル)が、日本におけるCRC実施の中でどのような制度的位置を占めるのかを検討する。
2 国連子どもの権利委員会が求める実施水準
―一般的意見5号・12号・14号―
国連子どもの権利委員会は、CRCの解釈指針として一般的意見(General Comments)を公表してきた。中でも本稿にとって重要なのは、一般的意見5号、12号、14号である。
2.1 一般的意見5号(GC5)
GC5は、CRC第4条を中心に、条約実施に必要な「一般的実施措置(general measures of implementation)」を体系化したものである。そこでは、
- 法制度
- 政策・計画
- 子どもの参加
- 影響評価
- 予算
- モニタリング
が不可欠な要素として列挙されている。
重要なのは、これらが「努力目標」ではなく、制度として確立されるべき実施条件とされている点である。
2.2 一般的意見12号(GC12)
GC12は、CRC第12条の意見表明権を詳細に解釈し、
- 意見聴取は形式では足りない
- 安全・安心な環境
- 年齢・発達に応じた方法
- フィードバック
を伴う「実質的参加」が必要であるとする。
2.3 一般的意見14号(GC14)
GC14は、CRC第3条の「最善の利益」を、手続規則として整理し、「最善の利益」を説明責任を伴う判断手続へと転換した。詳細は別稿で。
3 日本の国内実施構造とこども基本法の限界
こども基本法は、CRCを明示的に踏まえ、基本理念(第3条)、意見反映(第11条)、計画(第10条)、周知(第15条)等を定めた点で重要な転換点である。
日本のCRC実施は、こども基本法によって、国で骨格が整い、自治体で初めて実装される段階に入ったと評価できる。
しかし同法は、
- 事前検討(CRIA)/事後評価(CRIE)を明文化していない
- 具体的運用は自治体に委ねている
- 権利救済や第三者機関を設けていない
という限界を持つ。
したがって今後は、自治体ごとに、子どもの権利条例を制定してCRCを実現する必要がある。
4 子どもの権利条例の類型と理論的位置
日本の子どもの権利条例は、大きく三類型に分けられる。
第一は、川崎市に代表される完成形モデルである。
第二は、理念宣言型条例であり、実装が弱く空文化しやすい。
第三は、両者の中間に位置する移行期・実装準備型モデルである。
安芸高田モデルは、明確に第三類型に属する。
5 安芸高田モデルの構造分析
5.1 CRC一般的実施措置との対応
本条例案は、
- 目的(CRC実現)
- 基本理念
- こども計画
- 参加
- 事前・事後評価
- 予算
- 見直し
をすべて包含している。
これは、GC5が示した実施要素を、日本の自治体法制に翻訳した構造と評価できる。
5.2 参加・評価・予算の最小実装
安芸高田モデルの特徴は、完成形を目指さず、最小限で回る実装を選択した点にある。
また、事前検討・事後検証を条例第8条で明記しつつ、手順を市長委任とし、GC14の手続規範を最小コストで導入していることが注目に値する。
5.3 将来改正を内包する制度設計
附則により2年以内の見直しを制度化した点は、条例を静的な規範ではなく、進化する実施装置として位置づけている。
6 日本におけるCRC実施への意義
安芸高田モデルは、
- 行政裁量中心の子ども政策を
- 説明責任を伴う権利実施へ
転換させる制度的起点となる。
また、小規模自治体でも実装可能な点で、全国展開の参照モデルとなり得る。
さらに、国連審査において、日本が「自治体レベルでの実施証拠」を示す際の有力な事例となる。